雑記

ゆる~く、想いついたことを、語る

『人として』に引っかかる

 老人ホームの介護職員が虐待を繰り返していたという記事に

『人としてどうかと思う』

というコメントを読んだ時に、

確かに『どうかと思う』けれど、

『人として』という部分に違和感を感じたので

もやもやしていた。

 

『人として』という言い方は、

虐待をした者は、人ではない、という意味合いがあると思う。

しかし、虐待をした者も『人』には違いないのだ

特別異常な者なら、虐待をする以前に

問題(犯罪等)を起こしたり、気付かれる異常さがあるだろう。

 

普段の、仕事以外の場所(家庭)では問題ないのに

職場では問題とすれば、

『人として』というところでくくるのでなく、

何が『人として』で無くしたのか?を

探らなくてはならないと思う。

 

感情的記憶の無意識の復讐の話は、別のブログ記事

「何を言っても聞かない時」で

イライラする実母の言葉についての話として書いた。

 

『人として』を

『子どもとして』『親として』と言い替えたら

感情的苦痛を感じること

実母の言葉にイライラしてしまうことを

感じてはならないと抑圧するような環境になると思う。

 

もしかすると虐待をした人は、

老人にひどいめに合わされたことがあるのかも知れない。

その【感情的苦痛の記憶】を別の人Aさんに投影して

かつての憎い人と心理的に入れ替えてしまって

復讐していたとしたら、

虐待をした職員に必要なのは、

『人としてどうかと思う』という非難ではなく

『人としてどうかと思う』ことをしてしまう心理を解明する

カウンセリングだと思う。

 

表向きの理由は、介護の仕事の勤務が過酷でとか、

介護の仕事は給与が安いとか、

介護には向かない性格でとか、

仕事への固定化されたイメージや

個人の特性的問題で一般的でないと流されるだろうけど

『人』が『人としてどうかと思う』と言われることは

『人として』どうにか解明しなくてはならない

一般的で社会的な問題だと思う。

 

 感情的記憶からの苦痛を感じても良いから、

感じた感情的苦痛の記憶を復讐に転嫁して、

越えてはならない線を越えないようにするには、

『人として』『職業人として』『社会人として』

のように、

「こうあるべき」で語っても解決に向かわないと思う。

それは、ある側とあらざる側に分断する思考だ。

 

虐待をしても仕方ないと感じさせた心理的な要因

虐待をしたくないと感じさせなくした心理的な要因

それは、自分の行動を他人の思いに適応させること

自己喪失(自己否定)にある。

どうせ自分は虐待職員だから

だってXさんがやってるから

こうでもしないとやってられない(職場が悪い)から。

 

そこで失われているものは、

 自尊心と自己肯定。

自己判断・自己決定=自己の行動に責任を持つ

ことのできる人になること。

 

職場の教育で、

モラルの『人として』も大事だけれど、

虐待しそうになったら

虐待したら

その職員(人)がヘルプ(助けて!)と言える

職場作り(社会)が必要だと思う。

 

他人のせいにして生きるのは楽しくない。

言われた(と思い込む過剰適応)というのは

責任回避の心理から楽(らく)で安易に感じるかもしれない。

 

でも、自分を生きられないことは

生きたまま屍(ゾンビ)となることであり、

それはどれほど苦しい人生になるのかは、

程度の強弱はあれど、皆が感じていると思う。

 

社会の要請と思い込む(他者軸にとらわれる)な!

自分の良心・自尊心を無くすな!

『人として』とは、そういうことだと思う。

 

自尊心をくじいて支配しようとする

昭和の悪しき感性※を払拭しよう。

 

 ※ 昔聞いた古参の教師が新米教師に、

  生徒になめられないように、はじめにガツンと

  怖がらせて、どっちが上か、どっちがボスか

  思い知らせておけ、という感性。

  職場でも、良いから私のいう通りにやって!とか、

  何?それもできない、これも知らない!とか、

  自分の優位性を使って動けなくさせておきながら

  あれもできない、これもしない、

  言わないとやらない、言うと文句いうと

  言ってる「ベテラン」に苦しい思いをうけた

  トラウマが消えない。

  『人として』ではなく犬猫のように扱われる感じ

  言うことを聞かない手間がかかる認知症と称されていた

  老人への態度も犬猫を扱うようだった。

  脅しと褒美、ムチと飴、

  最初の介護施設の施設長は施設の女王様だった。

  おかげで、介護施設に批判的になったし、

  介護観に非支配、個人の尊重・自由の保障という観念が

  ついた(いやいや、これは介護保険の理念的には当たり前

  のはずのことだ。かの「女王様」は介護保険制度以前の

  措置の時代から介護を職業としていた人であった。

  基本的に介護業界の実態は措置時代と変わっていない

  のではと思う。措置時代を引き継いでいない一部の

  介護事業者が介護保険の理念を事業化しているようだ。)

  理想の施設には出会わないまま介護職員はやめた。

  介護職員は良い人が多い、介護施設も悪いものではない。

  ただ、僕の理想の介護のあり方は、介護施設の介護職員

  ではなく、在宅介護(それぞれの介護、個別の必要性に

  応えることが施設より可能な)の家族を支えることであり、

  僕にできるのは、その一部でしかないと思ったというのが

  介護業界での体験であった。

  かの女王様は、僕は介護(職)には向かないと評した。

  介護業界・介護職員はやめたと思ったのだから、

  的確な評価だったのだろうね。

 

何を言っても聞かない時

話を聞くのが難しい、嫌な人がいる

実の母だ

普段は気にとめない言葉(や行動)に

カチンときたり、イライラしたりすることがある

なぜだろうって思って考えてみた

 

まずは感じること・気づくこと

なんか知らないが今日はイライラするなぁ

と自分の状態に気づくこと

そうして、そのイライラを引き起こす対象が

母親であることを認めること※

老いた親にムカつく・イライラするなんて

自分はダメな人間だと自己否定しないで

なんだよ!くそババア!と

声に出さずに言って

感情を受けとめてから

なんで? くそババアなのかなぁ

と考えてみると

実は過去の記憶が起こす感情で、

今のことではないことがわかるときがある

 

 ※ イライラの対象としての母親は実在だけれど、

  イライラの実体ではなくイライラさせるイメージ

  であり、仮想敵でもある。イライラの実体、真の敵は、

  形を成せずにいる自分への自己評価=ジャッジに

  抵抗している自分自身、こうありたいでも成れない

  という葛藤が正体。自己嫌悪・自己解離。

 

 

『何を言っても聞かない時』(何を言われても聞けない時)は、

言葉の意味ではなく感情の記憶(杓にさわるの杓の正体)に

反応していると思う

 

小さい子供の頃、大きくなって成人してからでも、

親が親の統率=支配下に子どもがあるという態度

ああしろ!こうしろ!

そうするな!ダメだ!何してる!

と指図と命令をしていた親が、逆転して

ああもできない、こうもできないとなったとき、

親も年老いたねぇと寛大になるのではなく

虫の居所によって感情をぶつけられた復讐に

何してる!早くしろ!

ダメだ!もたもたしてるから迷惑(他人の目)だろう!

とかつてされた感情的苦痛をやり返してしまう

 

他人の年寄りには寛大なのに

他人の子どもには寛大なのに

自分の親に

自分の子どもに

口うるさい中年以上の親子っていうのを

病院なんかでよく見る

 

他人事だと、まぁ年寄りってそういうものじゃんって思うけれど

自分の親子となるときつい物言いをしてるのは、

きっと子どもの頃に親にさんざん言われたからだろう

そこが他人と実の関係の違いだと思う

 

詐欺の餌食にならないように

ベーシックインカム

生きるのにかかるお金を保証するシステム

なぜ働くのか?といえば

生きる・生き延びるためだけにお金が必要だからだ

なので、どうにかしてお金を得ようとする

一般的には労働して対価をもらう給与所得者になる

あるいは事業で製品・サービスに対価をもらう

ところが、労働に従事できない場合もある

最近できた知人は交通事故の後遺症で体が不自由だ

不自由といっても身体障害の手帳はないらしく

生活保護の受給を受けているらしい

生活保護は制約や監視があるから嫌だと言っていた

けれど、働き口はない

その知人がとあるMLMマルチレベルマーケティング

の勧誘をしてきた

会費を払ってサービスを受けられるし、

会費は互助の精神で運用されているから

会員は皆ハッピーなのだという

何人かアンダーを作れば会費の元は取れるし、

権利収入が入って来るから

生活保護も抜けられるという話だった

 

僕はMLMのひとつに入っているけれど

うまい話にのれるのは一握りだと感じてきた

それでいまさらだけれどMLMの解説動画を見てみた

 

MLMは仕掛けるピラミッドのトップのお金持ち階層と

仕掛けられて利用される貧しい階層の

極地がはまるという解説を見て

そうだと思った。

中間層の人たちは、お金がそこそこあるから

お金を得ることと使うことがバランスしている

お金持ちの層はお金があるから

仕掛けをつくっては貧しい階層から巻き上げる余裕がある

貧しい階層は生きるのに必要なお金を得ることとに苦しんでいるから

お金持ちの甘い言葉にだまされる

 

お金持ちには余ったお金の使い道のひとつでも

貧しい階層では、生きるのに必要なお金を削って

生き延びるだけでやっとの暮らしから抜け出すために

と出すお金だから、だした穴を埋められずに

破滅する

 

お金持ちが、もう少し投資すれば儲かるのにやめるのか?

というような余裕がないのが貧しい階層なのだ

今、今日の生死がかかっているのが貧しい階層だ

 

なぜそんな苦しい中から気がつけば高額だったり、

無駄だったりする製品・サービスにお金を出すのか

 

それは貧しいからだ

それは生きるのに生きることを維持するためだけに

お金が必要だからだ

そのお金でその人の人生を支配(依存)させるからだ

生活保護生活保護が受けられる条件下にいるために

人生を支配(依存)に留める仕組みになってしまう

 

こうして貧しい階層の人ほど

詐欺にだまされることになる

 

極論すれば生活保護がだまされる人をつくるのだ

そこでベーシックインカム

生きるのに必要なお金を保証することで

よりよく生きる部分は個人の采配でかわるものの

生きられない人はつくらないというのが

必要なのだと思う。

 

交通事故の後遺症で働けない知人は、

一方で地域の歌声サークルをしてたことがあるという

その人ができること・やりたいことをするために

生きることにかかるお金は保証できれば、

詐欺や金持ちの甘い言葉にだまされることは

ないと思う。

 

お金というシステムが、システムでなく

生存そのものをお金が左右することが間違っているのだ

 

詐欺犯罪を撲滅させて、だまされる人を減らすには、

詐欺の犯罪者に都合のいい貧しい階層の人々を

無くせばいいのだ

 

だまされてでも生き延びる術を求めなくてはならないと

追い込まれる人がいなくなれば、詐欺はつけ入る隙がなくて

詐欺業が業種から消えていくだろう。

少なくとも生死にかかわる詐欺は無くなるかもしれないと

僕は思う

 

貧しい階層ほど騙されない余裕がないからだまされる

余裕とは生死にお金が必要でもそのお金がないということにとらわれずにすむこと、

つまり、生きていれば死なずにいられること

死の要因がお金の有無ではないこと

 

支配(依存)させるお金の出し方でなく

その人が生きるためのお金は無条件で保証すること

そういう社会を作らねば

と思うのでした。

 

詐欺紛いの互助会(営利団体)ではなく、

行政的社会の仕組み・あり方として

公的生活基盤としての仕組み

ベーシックインカムを創らねばと思うのでした。

 

 

 

介護って何だろう オムツの功罪

介護って何だろう オムツの功罪

 

施設の介護職員をしていたけれど辞めた。

辞めたのは3回、つまり3ヶ所で働いた。

介護の仕事は大変だからと言われると、

そうなんだけれど…何か違うと思う。

介護で一番大変なのは、介護される本人なのに、

本人より介護する側の大変さが強調されると思う。

 

介護って何だ?

僕にとっての介護は、管理と支配に

ちょっと人の温もりがあることだった。

基本は管理と支配だ。

僕はこの管理と支配が大嫌いだ。

でも、世の中に適応するには、管理と支配に適応するのが

とても楽なのだ。

 

よく言われたことしかやらない!

というけれど、その実、

言われたことだけして!

余計なことしなくていいから!

そんなことしてたら時間がいくらあっても足りない!

などなど、言われたことだけしろ!!

といってる側が、言われたことしかしないと言ってると思う。

 

このブログで書きたいことは、

僕はこんな世界=職場=世間の常識では

働きたくない、家畜のように働くのは嫌だから

就職しない!を主張というか言い訳するためだ。

負け犬の遠吠えだと思ってくれて良い、

この世界では今はそうだから。

でも、世界は変わる、管理と支配の世界は崩壊する

その時は今の常識人たちは、

特に損失はない。

現実に適応することができる人々なので、

変わった世界に適応するからね。

僕のように、現実に適応できずに、

現実を変えようとする想いの人は、

適応できないから苦しむ、

この苦しみを現実を変える力にできたものが、

改革者になれる。

 

オムツの話だった。

排泄の介護にオムツだよね。

施設の職員がよくこう言っているよね。

「大丈夫、(オムツしてるから)そのままして良いよ。

後で取り替えるから」

排泄のつまり、排尿や排便の欲求が出た時に、

その人がオムツをしていたら、

排泄が最優先の仕事(処置)ではなくなるということだ。

この声かけの背景には、「出る出る詐欺」がある。

出そうだ、オムツにするなんて嫌だ、

という生理と心理だろう、排泄介護を求める、

でも、なかなか出ない(大人が他人の前で排尿・排便をさらすのだ、簡単な訳がないのに)と、

構っていられない(他の仕事=業務や介助に行かないとならない)

そこで、オムツに出たら処置するということになる。

オムツはよきせぬ排泄による対応の大変さを補う物

ではなく、簡易移動式トイレ(ポータブルトイレ)を

体に装着したものになる。

トイレを体に装着されるってどういうこと?

想像すれば、ひどい仕打ちだと思うけれど、

介護の常識だから、誰もおかしいとは思わないのだ。

言われたことをやってください!!

だからね。

 

じゃぁ、オムツを外すにはどうしたらいいか?

排泄、特に排便はパターンがありそうだ。

そこで、排泄管理表を記録して、パターンを読み取り、

終日オムツからパンツへ移行するってありそうだ。

でも、僕がみてきた限りでは、

排泄管理表は、いつ、尿か便を、どれだけしたかを記録して

排泄がされていることを確認するものだった。

つまり、結果の記録=管理記録であって、

排泄介護のための記録ではなかった。

排泄介護に役立てていないのか?というとそうではなくて、

「⚪⚪さん、朝から一度もトイレに行ってない

(記録表に記載がない)のはおかしいでしょ!

記録もれなの!トイレ誘導して!」

となる。

排泄管理表が排泄介護(介助・処置)に必要だということだ。

 

じゃぁ、理想の介護とは?

その人に付ききりでその人のことを知るところから始まる。

だから、施設の介護、集団的で工業的(コストパフォーマンスを追求する効率化優先の)な様式では限界があると思う。

先ずは、施設の理念と実態把握がされているか?

どこの施設も、どの職員も、利用者の満足を良しとする。

ただし、がある。できる範囲で。

このできる範囲が、とても幅が広いのだ。

職員が足りない、設備がないなどといきとどかないところから、

そこそこ頑張っている施設、

業界の常識にとらわれない介護をする施設、

いろいろある。

都会では、無認可、無許可の介護じゃなくて収容所のようなところもあるようだ。

 

僕は、管理と支配の度合いが介護か介助か処置かという違いになると思う。

オムツにもどる。

オムツをしている人をトイレで排泄させるのは、難しい。

パンツなら、下げればお尻が出てくる。

便座に座ってもらって待てば良い。

オムツなら、オムツを外さないとならない、

パットもオムツも一体ではないからパンツを下げるようにはいかない。

装着も大変だ。

つまり、オムツにした時点で、

排泄介助は事後処理にします!

と決めたことになる。介護の放棄だろう。

介護する側の大変さがわかっていないから!!

という主張は当然あるだろう。

大変なのは事実だ。

大変だから介護をするのだ、介助や処置でなく、

介護をするってそういうことだと思う。

それに、介護は24時間365日休まらないというけれど、

それは介助と処置を無観察にスケジュールすることからくると思う、向き合いかたが中途半端だからだ。

在宅介護(訪問看護などを利用して)は、施設と違い

いわばオーダーメイドの介護だ。

オーダーメイドの良さを発揮するためにも、

介護の常識や施設のまねをしないでほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大人が子供になるとき

似てるけれど陰陽が逆のつまり見かけの性格が逆の人のことを考えていたら、浮かんだタイトル、ブログを書いてみようと思った。

 

裸の王さまに見たまんまを告げたのは、子どもだった。

子どもは純真だからではなく、余計な気遣いをしないからだ。

大人は気遣いや空気を読むから、思っていることをそのまま言わない。けれど、たまに思ったままを言うこともある。

 

言った方は、気づかないで見たまま(感じたまま)をいうので、

「何それ?!失礼じゃないの!」

と反応されて、きょとんとして、場違いだったと大人に戻る。

 

ここで大人に戻らないで、そうかも、と受けとめられると、

オープンにひとつ上の次元で話せるんだけどね。

 

この人、なんだかんだ言って一人で舞い上がってるだけじゃん、という人がいる。

でも、その人には、僕は一人でうつむいてるだけの人に見えてるんだと思う。

 

似ているけれど、陰陽が逆と感じた。

陰陽が逆なので、合わないと思い出したら居心地の悪い関係になる。でも、ひとりよがりな点は同じなので盛り上がる感じはわかってて合うと思うと、いい感じの関係になる。

 

表面的には真逆な二人は、実は同じ気質がある、気質の出し方が違うだけって面白いと思う。

面白いよね~、今日はどんなふうに見えてる?

と話せたら、いい友だちになれるだろうなぁと思う。

たいていは、

調子にのってるけれど、お前の姿はこうじゃ!

落ち込んでかわいそうぶってないで、やれよ!

と反発しあうのが、大人げないよねぇ。(^_^)

 

long time no see

ブログを書きたいと思った一時期を過ぎたら、

書きたいことが無くなった。(/。\)

空っぽなんだなぁって思い知らされた感じや

どこかで誰かが僕の思いつきの何倍×多数ものことを

書いていることにも圧倒された。

競うつもりはさらさらないけれど、

僕がブログに書くまでもないと思うと、

書きたいことが無くなった。

今日、空っぽ宣言したら楽になったわゎゎゎ~(^^)

 

書きたい!欲求が出たからというよりは、

ずっと放って置くのが気になっていたところ

どうせ誰も読まないだろうと思うことにした。

読まれることを前提にするブログだから、

矛盾なんだけどね。

読者は自分ということ、

空っぽの上にちっちゃいねぇ~(^^)

 

☆病気について思ったこと

僕はこれといった病気はない。

『引きこもり』と『水虫』くらいだし

治療(医学的処方)はしていない。

ここ数日は目覚めるときに落ち込んで、

神様!助けて~ と思っている。

心は折れてるけれど、

生きていられるので十分です。(とも思う。)

神様!助けて~ と思ったときに、

僕のような居ても居なくてもいい者が

病気になることもなくいられるのは何故だろう?

さっさと余命期限のある病気で消滅させればいいのに、

神様はなにゆえ生かしておるのでしょう?

と思ったら、

病気にかかるには克服できる人でなければならない?

と思った。

僕に病気を付加したら弱るだけで克服できないから

神様は病気にかかるのを避けているのだろう。

 

なぜ病気になるのか?

ということも同じで、克服できる者には

克服してより高い精神性を授けるんだろうなぁと。

 

なんでこう思ったのか、自然療法に興味を持った。

いろいろな良い健康法をしていても、

病気にはなるかもしれない。

そんなときに、これこれの健康法を続けていたのに、

と思うのでないか?と想像した。

病気にならないための努力は無駄なのか?

と思うだろうと想像した。

病気にならないために健康法があるんじゃなくて、

病気になっても克服できる人になるために

人は様々な健康法や療法を試しているのだと思う。

病気にならないのは、健康法のおかげであり、

病気になってもその健康法は無駄やダメではなく、

意味があるのだろうと思う。

療法の話を聞くとき、

これをやれば効能・効果は実証済みですと

いうことを気にしていると思う。

だけど、病気になるということには、

何かしらの意味があるとすれば、

どんな療法も確実な予防や治療にはならない。

自然治癒力=自己治癒力のサポートでしかない。

病気になることも病気にならないことも

等しく自分を生きてることであり、

自分に内在する生きる力(フォース)は、

どんな自分をも支え、導いてくれると思う。

自分を大事にしようね。

(^身^)人(^心^)人(^神^)

 

 

 

 

 

 

 

嫌なタイプだけれど同志だった

基本的に引きこもりだけれども出かけると、

いろいろ気付きがある。

18日は秋田市へフットケアasita の公開勉強会に行った。

空いてた席に座って始まりを待っていたら、

先月のケアカフェ秋田で同席になったおばさんが

同じテーブルにつく流れになった。

先月、この人苦手で嫌いなタイプだって思った人だった。

始め右斜め前に座りかけたが、僕の正面に座った。

もちろん彼女は僕がどう思っているかは知らないだろうが、

この流れは、何か(目に見えないもの)の意図で、

彼女と向き合わせる流れなのだろうと感じた。

 

なぜ僕が彼女を嫌ったのか、

結論からいうと僕と反対のキャラクターだからだ。

同時に今回は、

僕が出していない僕の中にあるキャラクターを

見せているのかも知れないと気づいた。

 

僕の自分の話が長くなるのは、

どう言えばいいのか混乱しているからだ。

 

彼女の話が長いのは、

聞いてくれ!私はこんなに頑張ってるぞ!

私なんて、と表面でいいながら、

私の話をさせてくれ!という感じが嫌なんだ。

この人の話を聞いてあげる人はいないんだろうなぁ、

結局、自慢話をしにきてんのかなぁ、

見てると痛いなぁって思ってた。

 

今回も正職員からパートになった

(定年の年齢をこえたから、でも…とひとしきり話がある)

施設で、フットケアに足浴をしたいという若い職員と

施設の理解も得てやることになったけれど、

足浴するのは自分だけであること、

足浴の希望に休日も出勤(サービス残業?)している、

としゃべりまくっていた。

質問タイムにも、やり方を聞きたいといいながら、

私は…と施設でのこと、休日出勤のことと

ひとしきり話していた。

 

そうして、フットケアで

歩ける人が歩く意欲を無くさないように

家族も『もう年だから(手間かけなくていいです)』

でなく、できることはやってあげて、

最期まで過ごさせたいと言ったのでした。

 

質問を受けた方も、足浴の実行をほめて、

家族やケアマネ(介護計画に盛り込む)に

本人の希望が届くように、ケアニン※が声をあげましょう

と答えていた。

 

話の仕方や休日出勤の自慢?愚痴?はさておき、

奉仕の思いと実行していることは

僕がおよばないところであるから、

う~~ん、嫌なキャラクターだけど、

本人ができることを消さないケアを

という思いは共通なんだなぁと思った。

 

嫌なキャラクターでも向いてる方向・想いが同じ、

『同志』なら、話を聞いてくれに抵抗しないで、

聞かなきゃって思った。

 

※ケアニン

映画をきっかけに使われ出した新語。

介護者の中で志しのある人・志しを実行する人

という意味あいのように思う。