話すということ
前回のブログで一行の一言にこんなに解説がいるのか?
いるんです。それは TEDトークを見たからと、
次のふたつのTEDトークをあげました。
1) セレステ・ヘッドリー:上手に会話する10の方法
2) ミーガン・フェルブス=ローバー:
ウエストボロー・パブティスト教会から去った理由
ふたつに共通しているのは、聴くこと(リッスン)です。
お互いが相手に興味をもって聴いて、
お互いの思いを伝えることでした。
そして、セレステさんが項目2であげたのが、
会話では『一方的に話さないこと』
この時に「一方的に言いたいのならブログに書けばいいでしょ。」
と言ってました。
次のふたつ、
項目5:もし知らなければ知らないといいましょう
項目6:相手の体験を自分のものと同一視してはいけません
も加えて、僕が思ったことは、次のふたつです。
a) ブログは一方的に話している(話していい)
b) ブログを読む人が、自分と同じ思い(言葉)とは限らない
どうせ一方的に話すのだから、わかろうがわかるまいが
知ったことじゃないと書きつづればいいと考えるより、
同じ言葉でも違う受けとめかたがあるとすれば、
僕はこの言葉をこういう意図で使いました、
と言うことが、
一方的に話す・書く時にも想っていたほうが良いと思いました。
いちいちこの言葉は、こういう意図ですと書くことは
実際にはないとしても、
”ようだ“から”ヨーダ“への書き換えが、
そこにスターウォーズのジュダイマスターが見える
なんて発想についてきてくれる人はいないと思いました。
会話のシーンなら自分の発言で大笑いしてる変な人です。
ブログだから自分で笑ってるだけでも構わないけれど、
それでは本当に読む人を想定しない一人語りになります。
なんか虚しくないですか?
一方的に話すならブログで、
とセレステさんは言ってましたけど、
誰とは特定できない誰かに話している感覚はあります。
あるいは、友だちや知り合いに話しているつもりってあるように思います。
わかってほしいんじゃなくても、
そういう想いもあるよね、と受けとめてもらいたいなら、
無駄な解説をするのも、ありだって思います。