本当~はね (¬_¬)
他者から自分がどうみられるのか気になりますか?
僕は気になります。
何々に見えますよねが、ポジティブな時
いえいえ、本当はね、と謙遜(否定はしきらない否定)します。
何々に見えますよねが、ネガティブな時、
どうせ自分は、と受け入れます。
私、何々だと思っていたんですよ、と聞いたとき、
あっ、僕も何々でしたよ、と同じを唱えます。
ふっと思ったんです。
本当~はね、って言ってることは、
過去のことだなぁって。
ポジティブを否定するのは、
そうじゃない自分がいたからだけど、
今は?昔はこうでしたって言って
今の自分を受け入れていないのでは?
ネガティブを受け入れるのは、
そういう自分は変わりっこないと思うから?
今は?変わりたいって思ってるでしょ?
僕も同じっていうけれど、
今は?同じ言葉でも意味が変わっているかも?
今は?って問い直すことをサボって、
以前(過去)はで済ませてしまうと
せっかく変わろうとしている人生を
もとの枠にはめなおしてしまう。
せっかく自分の気づかなかった自分を教えてもらったのに、
もとのお馴染みの自分に戻してしまう。
せっかく変わったと気づいてきたのに、
やっぱり同じにしておこうと自分をだます。
本当はね って思わせて自分がわからなくなる。
どうして自分は自分のことを知りつくしていると思い込ませるのか?
どうして他者の言葉を受けとめようとしないのか?
確かなことは不変だと信じていたら、
明日の私は間違いになる、ダメになる。
といいながら、不変な自分を作らなきゃと思う。
だって日々揺らぐ自分が不変ではないから、
正さなくてならないものだから。
変わらない自分を築くために、
変わる自分を否定する。
本当はね(¬_¬)
本当は、自分は常に変わる・人生は常に変わる
変わる=動くってこと。
何をしてきたか?
なんて気にしないで、
どんな人かって?
説明しなくて良い、見たままだから。
何になりたいか?
知らない。何になるかより、どういたいかだから。
本当は?
本当はねって(固定化できる私)はない、
本当はね (¬_¬)
私という湖に、本当はねって石を投げ入れた。
水面を波紋が広がる、私ってこんな模様って。
それを見て他者が湖に石を投げ入れる、
新しい波紋が広がり、波紋が干渉して波が立つ。
いろんな人が湖に石を投げ入れると、
湖の波は複雑な波模様になる。
湖は私、水面の波は私の模様、
どんな模様も私だって知りたくて、
静まりかえった湖面に、また、
石を投げ入れる。