雑記

ゆる~く、想いついたことを、語る

思いはあるけど How do I do ?

8月8日 満月🌕 いかがお過ごしですか?

ぐるぐるぐだぐだのブログですから、

忙しい人は読まないでね。長くなってしまったしね。

(忙しいから、ぐるぐる🌀の話に付き合って、

『何やってんだろう、私、忙しいのに』

って、忙しい私を斜めから感じる=弛みたい人は

読めるかも (~▽~@) )

 

昨夜は、アプリの TEDトーク が見たくなって

数時間夢中になりました。

いつものことですが、

あっというまにデータ容量を使いきりそうに

なってしまいました。

警告のメッセージも届いたし(^^;

 

日本語字幕のTEDトーク

(英語なので話の内容は字幕が無いとわかりません(ToT) )

を何本か聞いているうちに、

コンシャスネスの単語が耳に残りました。

コンシャスネス? ってなんだ?

アクセスコンシャスネス? ってなんだ?

ということで、Googleで検索しましょう。(^^)

 

コンシャスネスは、意識と訳すようだ。

(断定表現が苦手なので、ヨーダには突っ込まないでください。

ここで、“ようだ”を“ヨーダ”に書き換えたのは

僕流のユーモアです。“ようだ”の部分に

スターウォーズのジュダイマスターのヨーダをイメージ

駄洒落の変形で音と音の類似から、音と絵の類似への飛躍です。

一行書いただけで、こんな解説がいるのか?!

いるんですねぇヽ(^。^)ノ、この記事には書きませんけど、

昨夜《21時頃~3時》に見てたTEDトークに関係します。

セレステ・ヘッドリー:上手に会話する10の方法」

「ミーガン・フェルブス=ローバー:

エストボロー・パブティスト教会から去った理由」)

 

なんの話でしたっけ?ですよね。

コンシャスネスの音から僕が想起した言葉が、

アクセスコンシャスネス、アクセスバーズです。

『脳の断捨離 アクセスバーズ』と定型句で覚えていて、

それで通じているんで、

脳の断捨離って何?

ということは考えていなかったんです。

意識にアクセス(アクセスの訳は…意図的に触れるかなぁ)

アクセスするバーズ(鳥の複数形ではありませんよ、

飲み屋の複数形でもありませんよ、

老女(ばぁず)でもありませんよ、

3つめは無理矢理考えました (;^ω^) )

ということで、やっとお話の起承転結で言えば、

『承』に来ましたよ。

わかりやすく解説してくれたサイトが以下です。

 

2015.12.30 アクセスバーズ

アクセス・コンシャスネスって何?
https://www.gamitaka.com/about-access-consciousness.html

------ 引用 --------
アクセスバーズ®

アクセスバーズは、頭部にある32箇所のポイント(バー)をタッチして、

エネルギーの滞りや頭の中に溜め込んできた余計な思考や感情を優しく手放していくツールです。

 

不思議なことに、頭をタッチするだけで脳波が瞑想と同じような状態(シータ波)になり、

とても深いリラックスを得ることができます。

また思考がジャッジをしないニュートラルな状態へと近くことで、

自分の中で「タブー」とされていたことも選択できるようになり、

その結果人生が変わるほどの変化をされる方もおられます。

※もちろん個人差があります

-------- 引用終わり --------

 

さらに(ここから『転』です)以下の記事を読みました。

2016.11.02 アクセスバーズ

福祉施設や医療の現場で仕事をされている方にアクセスバーズ®を学んで欲しい!
https://www.gamitaka.com/accessbars-welfare-medicalcare.html

 

ここから『結』です。

アクセスバーズもアロマ・タッチング・マッサージも

自分を癒すことではありますけれど、

同時に、まわりの人も癒したいと思うんです。

2016年の9月に五城目町のイベントで、

足つぼマッサージとアクセスバーズ

(秋田市四ツ小屋 足つぼマッサージ よもぎ蒸し 骨盤矯正 サロン ほんわか
http://ameblo.jp/ameba-none )

を受けてみてから、ボディワークという言葉を知りました。

フットケア、ハンドマッサージ、アロマタッチ、

『触れる』に想いがいくようになりました。

 

あっ、ここでちょっと『転』です。昔話です。

僕は、触れられるのが嫌でした。

友だちとじゃれる感覚、プロレスごっことか

ゲェ~~です。

小学生の時、プロレスでアイアンクローという技があり、

いじめられる側だった僕は、

こめかみを鷲掴みするその技をかけられて

泣いてましたね。

話が飛んでいきますけれど、小学生の六年だったか、

そんな弱虫君の僕は、

ある日アイアンクローに怒りが爆発しました

もしかしたらそのアイアンクローをかけた級友、

僕には同じクラス以外に何のつながりもないその子は、

親しみとか遊びとかふざけてるつもり、

悪意はなかったのかも知れない。

その日の僕は泣きながら止めてよ!と言った。

腕力に劣る僕の抵抗はかなわなかったけれど、

家に帰った僕は、『もう泣かない!』

と誓い、母に宣言した。

触られることが嫌な心的外傷の記憶かもしれない。

 

トラウマかもと思う別の記憶があります。

中学校の卒業の頃、とある女子に握手を求められました。

僕をおもしろい人だと思っていてくれたらしく、

同じクラスだった記念にくらいのことでした。

断る理由はないし、意外ではあっても、

僕もその子が嫌いでないので握手をしました。

ところが握手の直後にその手を服でぬぐったんです。

なぜなのかは、わからないけれど、

あの感覚はある種の罪悪感でした。

 

汚れていないのに、汚れた感覚、

でも、それは相手のものではなく。

 

今、ふたつの記憶を並べて想うとき、

触れられること、触れることの記憶をたどると、

『触れる』へのアンビバレンツ(二律背反)を感じる。

 

大学でできた親友は肩こりなどの強い(体が硬い系)人で、

よく僕にマッサージをしてと言っては、

マッサージ方法(揉みかた)を教えてくれた。

 

触れる(自分が)は好きだったんだと思う。

触れられる(相手に)への抵抗、

体を閉じることは、心閉じることでもあったんだろう。

 

(心を閉じる昔話、両親のことは、いつかブログに書くだろう。)

 

あれ? 何の話だっけ?

 アロマオイル・エッセンシャルオイル

約15年ぶり再開しようと思ったのは、

doTERRA のオイルが体に触れられる

(香りを匂ぐ、体に塗る、飲食、の三大利用法のうち

特に塗ることが簡単にできること=メディカルレベル

のオイルは、僕には衝撃的出会い)

からだった。

アクセスバーズも難しそうなマッサージ手技はなくて

バー(ポイント)を触れるだけ、

治そうとか、変えようとかの意識はしない、

というのがお気に入りだ。

 

ちゃんととか(何をもってちゃんとというのか?)

経験を積んで手技がうまくなってからとか

(素人なんて相手にされない、どころか迷惑かも)

と思うから、

変なオジサン、怪しいことって思われるだろうなんて

思うから、

どうやって、

触ってもいいですか?

エッセンシャルオイル使ってみましょうよ、

ってはたらきかけたらいいんだろうって ((( ;゚Д゚))) 思う。

やっとタイトルにたどり着いたね。(*⌒∇⌒*)

 

触れること・触れられること:

イベントで小さい子どもをだっこすることがある。

なついてくれるのは、僕に何かがあるからではなく、

子どもたちが触ることを許しているからだと思っている。

遊んでくれているのは、僕ではなく、

子どもたちのほうだ。

僕は触れられるのが嫌だったから、

触れることを許す子どもたちは、すごいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

認知症は治すものか?

徘徊ですか?

を書いたら、認知症について書きたくなった。

僕は施設の介護職員を通算で3年経験した。

2012年の9月から2017年の4月まで、4年半のあいだで。

初めて勤めたのが認知症高齢者のグループホーム

後はショートステイの日勤を2ヶ所でした。

 

認知症に限らず、施設の入所者に感じていたこと、

みんな我慢している=適応していると思った。

そして、彼らに問題があるのではなく、

彼らと関わる側=介護者に問題があると思うようになった。

介護者(施設)を悪いとか不充分だと批判するつもりはない。

批判的だったことはあるけれど、

どの施設もどの介護者もそれぞれのベストをつくしていると思っている。

理想との差は言わば力量の差で、ある意味仕方がない。

力量の差は、補い合えばいいのだ。

 

適応力があるから生きていられる、

認知症の人も適応している。

ただ、適応しきれないところがあるのを

どう支えるかの問題で、

認知症の人をどうやったら介護者の都合に合わせられるか?

ではないと僕は思う。

たまたま僕は軽い認知症の人しか見たことがなくて、

何年間も認知症の人と戦う介護を経験した人には、

怒りをかう記事だろうけれど、

僕は認知症は治すものだとは思わない。

この記事の結論は、

認知症の人に寄り添えば穏やかに過ごせると思うから、

認知症は治すものではないと僕は思う。

認知症の人のできることをできるように、閉じ込めず、

介護者が寄り添えるように、仕組みを作れば良いのだと思う。

 

 

認知症は病気の状態であるから、

その状態に合わせて対応すれば問題ではない。

同じ話を繰り返すので相手にならない、

というのは、認知症の人を変える問題ではなく、

介護者の対応の問題だと思う。

繰り返す質問に繰返し答えるからおかしくなる。

いい加減にして!と切れるから、相手も切れる。

介護者が繰り返す質問に繰返し答える余裕がないから問題で、

余裕が無いことは認知症の人のせいではない。

介護費用のこと、介護の見通し、住まいの改造、

家族の日常、家事、子育て、就業ストレス、

介護者に余裕が無いから問題にされる。

施設だって人手不足だから、

マニュアル(一律定型的な)は無いと言っても

通常業務(定時的で定型的になる)はある。

余裕が無いのは同じだ。

 

とある勉強会で両親の介護が始まったばかりで、

専門職の意見が聞きたいと言われたことがある。

同じ質問を繰り返す認知症と診断された人に

どう対処したらいいか?と聞かれた。

 

質問に答える(ご飯は食べたでしょ!)ではなく、

問いかけてみることを提案した、

ご飯を食べて無いというなら、

お腹が空いているのか?と聞いてみる、

空いているなら口に入れても良いものを出してみる、

それでもダメなら空腹の理由はストレスかもしれない、

散歩に出ようと誘ってみる…、

と面倒くさいし、つきっきりになるだろう、

この徹底的に付き合って

何が望みか?不安か?を知ろうとする余裕がない。

だから、認知症に付き合えないことが、認知症の問題をすすめる。

と、考えているが、実証はできていない。

 

なんだ、認知症対応のハウツーかと思ったら、

なんちゃって(;^ω^)って話かと、

がっかりしたら残念でした。

 

結論を繰り返すと、

認知症の人をどうやったら介護者の都合に合わせられるか?

認知症は治すものだと僕は思わない。

認知症の人に、寄り添えば、安心していられれば、

穏やかに過ごせると思う。

介護者にも、寄り添えるように、心配を抱えずにすむように、

仕組みを作れば良いのだと思う。

 

徘徊ですか?

あ~~~~イライラした。

 

今年の誕生日が来ると81歳になる母が、

目薬を買いたいというからドラッグストアに行った金曜日。

 

買い物カートを押しながら、店の中をくまなく見て回る

あぁ、毛染めなぁって、毛染めを選ぶ、

「これはいくらだ?色は?」といいながら、

僕にも聞いてくる、

「液体とクリームがあるんだ、どっちがいいの?」

と始めは穏やか僕。

ボックスティッシュの前で、「これ安いか?」

トイレットペーパーの前で、「買ってやろうか?」

カップ麺の前で、「いらないか?」

ペットボトル飲料の前で…、「… 」

 

何しに来たのか、わかってるのか?

僕は暇人だから付き合うものの、

忙しいモードの一般人なら、

イラッとするよねぇ(まだ耐えられていた)

 

あれこれ見てまわるけれど、

いっこうに目薬には向かわないので、

「何買いに来たのかわかってる?」

と聞いてみた。

「あれぇ、なんだっけなぁ」

「目薬だよ」

「そうだ、目薬だ」

やれやれ、目薬買って帰るよと僕は思う

「ラジオの電池」

目の前に現れた電池コーナーに電池がいるという、

「電池切れたの?」

「いや、切れるかなぁと思って」

「じゃ、今日でなくてもいいんでしょ」

(立場を変えれば、今日でもいいでしょ、もありだけど、

この時点で、いい加減に帰るぞ!って思い出してるから

目薬買えよ!ってイライラしてきてる僕)

電池はパスしたものの、

そのまま洗剤エリアへのろのろとカートを押して行く

ぐるぐるまわっているうちに、

これって『徘徊』ですか?と思う。

母は認知症ではないと思う、一人暮らしできてるし。

僕は母が買い物に出る時なるべく好きにさせたいと思う。

自分で店へ行くことがほぼ無いし、運動も兼ねて。

なんて言ってられなくなって、イライラしだした。

お店の店員さんが『何かお探しですか?』

と声をかけてきたりもした。

車に戻って時計をみたら1時間が経っていた。

店員さんがおかしいと思うわけだ、と後から思った。

 

徘徊には理由がある、と言われる。

店の中を歩きまわるのは、どんな理由があるんだろう?

目薬を買うという目的を忘れていたのか?

いろいろ見て回りたかったのか?

目の前の商品にしか対応できないのか?

構ってほしいのか?

理由なんて無いのか?

 

レジを済ませて買い物を完了することはできる。

一方で、僕がイライラし始めても、

気づいていないのか、化粧品コーナーに行ってみたり

試供品のクリームを手に塗って、

てへっと笑って見せたりしてた。

 

病気ではないだろうけれど、

付き合いきれない行動をするようになった。

 

この日は郵便局で古い通帳を解約してと言っていたけど、

窓口で解約済みだと言われてきた。

通帳に『継続』の判子が押してあるのにと

母は納得しきってはいなかった。

それは通帳が新しくなって次の通帳に引き継ぎましたよ

ということでしょと言ったが納得はしないが受け付けた。

郵便局のやり方がおかしいんだとつぶやいてた

それは、母に理解できないことは間違っている

という思考=見当識障害の始まりだろうか?

 

ともかく、

介護認定を受けるくらいに老化が明らかで

介助の必要な老人ではない時期こそ

見守り、寄り添いの意味が大きいと感じた。

 

そんな時期の家族は、

目薬買いに行きたいと家を出て、

1時間お店を徘徊するのに付き合うような

暇はないだろう

 

僕が介護に関わっていなかったら、

お店にいる時間は最長10分いたかどうか

 

まとめの言葉を探してみたら、

歳はとりたくない、早く死にたいものだ

でした。_| ̄|●

 

 

 

 

 

 

 

 

終わらない

ひとつの想いが起きたとき、

そのもや~~っとしたことを言葉で考える

そうだ! こういうことだ。

でも、僕の口癖は、「でも」や「けど」

物の見方や考え方は、矛盾する。

生きてることは矛盾だらけに思える

いきなり俯瞰するとそうだけど

生きてる時を瞬間的には言語化=固定化できる

けれど、いつも同じ言語化はできない

だから生きるという継続性において矛盾する

自分の考えを、さも人類の叡智のように

大げさに話す、虚言じゃないけど虚言

これは主語を明確にしないことからおきる

「私は~~と思う」には私という限定がある

主語を省くと、誰もがそう思うと思い込む

誰もがそう思うと思い込むから

違うことに抵抗感がおきる

世界は矛盾だらけだ!

違うよ、矛盾しているのは、

世界を自分枠で見ているから=固定化しているからだよ。

世界はなんでもありのカオス

カオス=無秩序な表層を展開する秩序

フラクタル=部分は全体を包含する

表が裏に、裏が表に

という思考癖も僕にはあるようだ

表と裏を、陰と陽に言い替えれば、

太極図のイメージだなぁ

と思ったものの、

太極図の活きてる感覚がわからない

(ほら、

「わからない」と言語化=固定化するから

「わからない」になり、

「わからない」を続けるから、

「わからない」から抜けられない)

 

でも、けれど、は否定の言葉だと思い込んでいた。

自分を肯定できないから、

言い切れないんだと思っていた。

私は~~な人です、と思ったら、

~~な人で居続けなければ、

~~な人にならなければ、

と思っていた。

 

でも、けれど、って思うから、

思ったことが実現=引き寄せできない

 

でも、けれど、ってぶれるから、

人生が定まらない。

 

そもそも人生は定まったものなのか?

ぶれちゃいけないものなのか?

 

こうして言葉で考えることには、

限界があると感じてきた、

あれかこれか(言語化)でなく、

すべてを、矛盾・二律背反を含む(メタ言語)

 

『考えるな、感じろ』(映画“燃えよドラゴン“)の境地に

ダイブして、サーフして、漂いたい。

 

なに言ってんだよ(¬_¬)

 

 

 

 

 

僕のブログはメモ帳~読むのは時間の無駄遣いですよ~

あれこれ思いついて考えることがある

そうか! こういうこと?

と想いがふくらんで、わかったような気になる

想いが広がって、わからなくなることもある

あれこれ考えるときは、頭の中なので、

言葉は使うけれど、文字には変換していない

イメージはわくけど、言葉や動画や絵には変換していない

そのうち短期記憶の限界がきて、

考えてることがわからなくなる

キー・ワードやキー・イメージを覚えて

メモ帳に書き出してみる

書き出しているうちに、どんどん忘れていって

すごいことを想っていたはず

(だって、わくわくしたり、ドキドキしたり

ぐだ~~って落ち込んだり)

なのに忘れていく

何が言いたいのか?

何を想いついたのか?

とりあえずメモ帳に書き残していた

後から読み返す予定はない

(だって、誰かに説明することじゃない)

でも、誰かに「この話おもしろい?」と聞いてみたい

そんなどうでもいいことのメモを

公開しちゃおうって思ったんだね

僕のブログはゴミ・思いと想いのゴミになりそうだ

ゴミだよ、ゴミ!

公開するけど、僕のブログを読むよりも

有意義な時間を過ごしてくださいね、

うっかり僕のブログを読んでしまった人へ

 

 

 

 

もう少し先へ

『愚痴や不満をいうことは、暇だから』

Facebook のタイムラインに名言みたいな

さとすような毛筆書の投稿を見た。

そうだよなぁ、

僕はだらだらと暇してるから…、

 

愚痴や不満ってネガティブなのか?

暇ってネガティブなのか?

 

愚痴や不満は、気づきでもある

暇は、気づきを考える余裕でもある

 

愚痴や不満を言うような

暇に浸っているのは

ダメですよ

 

という考えを読んで、

その人の考えなのに、

自分を含めたみんなの考えだと思い込んだ

と目覚め前のぐるぐるタイムにひらめいた

 

愚痴や不満がネガティブなのは、

愚痴や不満を否定する”良識“の拡散にあるのでは?

愚痴を語り、愚痴を極めると

愚痴は知恵になるかもしれない

 

愚痴が知恵になるには、

愚痴に付き合う暇がいるのではないか?

 

暇だから愚痴をいうのではなくて、

暇が無いから愚痴をいうのだよ

考える暇が無いから、

愚痴は愚痴のまま放置される

放置されたものは変わらないから腐る

 

愚痴を種にするか、汚物にするか

 

冒頭の謹言のような“良識・常識”の類いは

さらりと頭に入るだけに

くせものだなぁと思った。

 

 

 

 

 

記憶の断捨離

ブログに何を書こうかと考えてみたら、

自分のこれまでを振り返えってみようと思いました。

今の自分は過去の自分と違うんだよね。

以前は、そう何歳の頃はこんなこと思ってた人だけど、

今はそう思わないんだ。

以前は、この言葉をこんな意味に思っていたけど、

今は意味が変わったんだ。

以前は、嫌いだったことが、嫌いでなくなり、

以前は…、

と考えているうちに、話しているうちに、

なんか悲しくて淋しくなってしまった。

 

記憶に残っている自分は忘れたくない自分だろうか?

記憶に残っている自分は自分のすべてだろうか?

覚えている悲しいことは、

かわいそうな自分をかわいそうなままにするための記憶

覚えている話したい記憶は、

聞いてほしい自分を聞かせるための記憶

 

履歴書を書きたくないんです。

過去の自分が今の自分にどんなつながりがあるのか?

語り始めると意外に面白くて、

自分の物語に酔いそうになります。

 

過去の自分があっての今の自分であることは、事実です。

でも、自分は事実(出来事)ではできていなくて、

自分にとっての現実(物語)でできています。

 

物語は、

語り手で変わる、語り手の属する価値観で変わる。

事実の見方も、

語り手と聞き手の価値観で変わる。

 

嘘つきじゃないけれど、嘘つき、

まるで、物盗られ妄想の認知症の人みたいな。

 

あなたに合わせて私を動かすことが社会性だとしたら、

これから僕が望むことは、

私にあったあなたとの付き合い脱社会性、

物盗られ妄想に付き合ってくれる超社会性、

何ができるかで採否される就職じゃなくて、

できることで採用される就自分なんだ。

 

履歴書を書きたくない、

就職はしたくない、

わがままに生きたいから。

 

ブログに書くことは、

昔話でも今の自分の物語になるんだろうなぁ

テーマは自分の再発見になるのかなぁ

本当はなんにも無い空っぽな自分が、

いろいろ詰め込んできたあれこれを

これも要らないあれも要らないって捨てていく

再発見のゴールは『くう』

ちぇっ!

答え合わせの人生はつまらないじゃないか (¬_¬)