雑記

ゆる~く、想いついたことを、語る

効率よく動こうとすると動けない

昨日は午前中に洗濯と掃除をした。

午後には車をざっと洗った。そんな一日に思ったことです。


昨夜(8/13)の入浴で湯船に張った残り湯で洗濯をはじめる。
トイレの掃除もしようと思い、掃除を始める。
車の洗車も残った残り湯でざっとやっておきたいね。
珍しくやる気がある。

思いついた順番に始めてふっと思った。
トイレの掃除や車の洗車で服が汚れたら、洗濯したいよね。
じゃ、最初に洗車をして、トイレを掃除して、洗濯をすると良いのかなぁ。

でも、洗車はすぐにしたくないなぁ、洗濯物がたまったんだから洗濯が一番だよ。
と考えていて、効率的に動こうとすると、
何をどの順番にと考えるために、止まるんだなぁと気づいた。

効率的に動こうとすると動けない!

ふたつみっつならともかくも、これがいくつもになると、
Aが先か、Bが先か、Cは…と考えてると動けない時間は長くなる。

とりあえず洗濯をする、洗濯機が動いてるあいだに、トイレの掃除をする。

効率を順番を考えるより動いていたら、
トイレ掃除を終えて一息ついた頃に洗濯が終わった。
早っ!
と思ったけれど、洗濯機を回してトイレ掃除をしてたから、
洗濯の終わりを待っていなかったぶんの時間が短く感じたんだと思う。

服が汚れたら次回でいいよ、という諦め、
とりあえずしたいこと・できることからやってしまうこと、
計画性とか効率とか考えない、無駄を許容するってことで、
結果的には動くことができていたと思った。

職場で新人の時、ちょっと流れがわかってきたところで、
効率的に動かなくちゃと思って考えていたら
何してんの!さっさと仕事してと言われた。
とりあえず、目の前の仕事をしてたら、
効率を考えて、あれしてこれしてって気がつかないか? と言われた。
そして言われるのが、お決まりの言葉で、
わからなかったら聞いて!
言われたことだけしてください!


動いても、動かなくても、効率が悪いって言われる。

効率的に動こうとすると動けないってことがわかっていたら、
がっちりマニュアル(手順書、優先度・順番)をつくって渡すか、
とりあえず、やってもらって経験則を積んでもらう(習熟には個人差大きい)か、
受け入れ側が考えられると思う。 ていうか、考えてくれよと思う。
動けない状態(心理的に)の人に
動け!と指示してるってことに気づけよぉ!
ってクレクレ星人炸裂だ。


効率的に動け!
という要求はとっても非効率だって思った。

あぁ~、就職=使われ たくねぇなぁ。(¬_¬)

 

 

ついでに、新人の時に嫌な言葉は、

見てわからない?!

はい、XXが⚪⚪です、どうしますか?考えてください。

見てわからない?!
見てわからないから、気づかないからできていないのに、
できていないのに気づかないのか?
と問うのは問いを発する側の優越感でしかないと思う。
終結果の判定ができない者に、最終結果の正否を要求する、
率直に何ができていないかを伝えるのが良いと思う。
この言い方では、できないことを、恥じろ!と
心理的に抑圧する、抑圧された時おこるのは、
状況の理解ではなく、状況への感情、それも負の感情でしかない。


はい、XXが⚪⚪です、どうしますか?考えてください。
これも同じ、答えが決まっていることを考えさせるというのは、
本当の思考力ではなく、順応することを要求することだ。

はい、XXが⚪⚪です、私ならこうします。
あなたならどうしますか?考えてください。
と、答えを提示したうえで考えることを求めるなら、まだ良い。
問題の解決法がわかったうえで=状況理解が安定したうえで、
他の解決法があるか?と問うなら思考力につながるだろう。


どちらも自分で考えることを促しているつもりだろうが、
問いを発する側の優越感でしかないと思う。
優越感を示すための時間は、非効率だし、不健康だと思う。

 

市町村まるごとアミューズメントパーク構想

地域通貨ベーシックインカムを広域に実施すれば、

みんなハッピーになれるじゃんという妄想の話。

みんながハッピーな場所といえば、

アミューズメントパークだなぁというタイトルです。

 

自分のできることで自分の都合を優先して働くことはできるだろうか?

例えば、高齢者の話し相手を介護施設でしたい・できるとして、

介護施設側が有償で受け入れる可能性はほぼ無いと思う。

ボランティアなら受け入れるかもしれない。

就業はしたくない・できないが、自分のできる範囲で働きたいと思っても、

ボランティア=無報酬では踏み出せない。

この場合、有償ボランティアなら数時間から徐々に働きつつ多少の報酬もあれば、

ボランティアという働き方を継続できるだろうにと思った。

現金による報酬は出せないなら、

現金に代わる報酬で、

働きたい側と受け入れる側が両得になる仕掛けに、

地域通貨が使えると思いついた。

ボランティアに地域通貨(ポイント制)で受け入れ施設が支払う、

施設に現金の支出は無いから経費はゼロだ。

ボランティアは地域通貨のポイントを受け取り、

そのポイントで地域の商店で買い物をすると、

現金ではないが、現金でほしかったもの、

例えばお弁当を得ることができる。

 

現金では流通・循環できなかった、

働きたいと働いてほしいを

地域通貨(仮想通貨)で起こして動かすことができると思った。

 

この地域通貨を広域で、市町村全域・県単位で行えば、

地域の活性化にもなる。

材料の仕入れに現金がなくても、

地域通貨があれば材料を得られる。

地域内でしか使えないから、必然的に地産地消になる。

閉じた経済と考えるかもしれないけれど、

足下の経済は地域通貨による循環(信用)で、

地域外の経済は現金=日本円による交換(対価)で、

という経済圏の重層化だと僕は思う。

 

売買の本質は利益を貯めることではなく、

物や価値を流通・循環させることである。

そこで、地域通貨の地域内での現金への交換=換金は

原則禁止のルールをつくる。

地域通貨は貯めるもの(対価)でなく使うもの(信用)だからだ。

 

現金を得たら、例えば宝くじで四億円あたったら全額使おうとは思わない、

なぜなら現金は貯めておくこと=動かさないことでの価値の減少をもたないからだ。

使うことで得られる価値と使わないことで得られる価値を対象化・比較できる。

一方、現金に換金できない地域通貨は、貯める意味がないとなれば、使う=循環する。

この貯めない通貨ならできる!とひらめいたのが、ベーシックインカムだ。

 

ベーシックインカムが経済の活性化につながるか? 

支給されたお金は、消費ではなく貯蓄にまわるのではないか?

将来の不安、ベーシックインカムが途絶えた時に何が生活を支えるのか?

何がの答えは、今も同じ現金である。

これを、信用に変えること、

それが地域通貨によるベーシックインカム制だと考えついた。

 

商店街のポイント型では、現金の仕組み=対価であって本質的な違いにならない。

だから、市町村や県単位の地域通貨であることに意味がある。

 

通貨を独自につくるとは、独立国宣言に等しい、革命でもある。

 

さて、妄想の世界では、

ベーシックインカムとして地域通貨を、

全ての住民に10万ポイント支給する。

全ての法人に100万ポイント支給する。

地域内では、全ての売買を地域通貨で行える。

 

さしあたり、生活保護は受けていないが生活が苦しい人は、

このベーシックインカムのポイントで食事ができる。

フルタイムで働けないが、ボランティアに行けば、

ポイントを得られるので、消費財を得ることは続けられる。

 

人手のほしい法人は、

ボランティアを適宜受け入れて隙間の時間や仕事をしてもらい、

地域通貨のポイントを出すことでボランティアを継続的に受け入れられる。

ベーシックインカムとして得たポイントを使うから現金の支出はない。

法人がボランティアを受け入れたら、

ボランティアに支給するポイントの何割かを地域通貨から

雇用助成金的に得られれば、ポイントはゆっくり減る。

法人が地域の行事や地域活動(ごみ清掃や花壇の管理)をしたら、

法人がボランティアポイントを得ることができるとすれば、

ポイントは減らないし、地域活動も活発化する。

 

例えば食堂の場合、お客さんが地域通貨で支払うと、

材料の仕入れは?となるが、

材料の仕入れ地域通貨ポイントを使えば現金はいらない。

材料=食材の生産者も地域通貨で支払ってもらって、

機材は地域通貨を使って資材店から得ることができる。

 

地域通貨は圏外では使えないから、

地域内で使う=循環させることに意味があり、

止まる=貯めることに意味がなくなると思う。

 

地域通貨が循環し続けるには、

地域内で使い続けること=地域通貨を信用しなくて続かないと思う。

 

地域通貨は仮想通貨だから、圏外では使えない。

では圏外との経済はどうなる?

イメージは貿易。

地域外とは現金での対価の交換をすればいいのだ。

地域通貨しかない人が地域通貨圏外に行くには、

現金が必要になる=換金ルールの問題。

経済圏の重層化なので、地域で鎖国することではない。

地域通貨を外の経済圏とつなぐために、

地域の銀行が為替レートの仕事をする。

 

僕は経済や経済学の専門的知識はない。

 

地域通貨ベーシックインカム地産地消、ボランティアという働き方、

これらの断片が僕の頭でぐるぐるしたら、

こんな妄想ができたという話でした。 

 

オマケ:

企業は、儲けることが目的の社会存在ではなく、

価値と物と人を循環させる装置であることが

社会性なのだと思う。

 

僕は企業とは、

利益を追求し、 最少のコストで最大の利潤を得るもの、

と思い込んでいた。

得た利益は企業のもので、おこぼれを社会がいただく、

企業ってなんか好かんなぁって思ってきた。

でも、企業をそんなえげつないもののままにするのは、

企業の意味をそんなふうに歪めている価値観とそれを疑わない自分のようにも思う。

 

企業とは?ってことも、自分の頭で感じてみなきゃ。

 

 

 

 

パンツをはかない~戯言

排泄についての戯言です。

オムツ外しって言葉を知ってますか?

子どもを育てたことはないので高齢者の介護でのほうです。

 

最近僕はパンツをはかない暮らしを数日してます。

引きこもりしている間は、

丈の長いふくらはぎまで届くフード付きの

ロングTシャツを着ています。

外に出ないのでパンツははかなくていいかぁ、

洗濯物は増えないし、楽だしねってことです。

 

パンツをはいていないのでというわけでもありませんが、

尿意や便意をもようしたら我慢しないでトイレにいきます。

トイレに行ける能力があるのでもらす心配はしていません。

 

それでふと思ったんです、オムツってなんでするんだろう?

排泄物(尿と便)を排泄場所(トイレ)以外に落とさない(もらさない)ためだろうって。

 

そう思うと、パンツをはく意味は、

排泄場所以外で排泄してしまうことを制御すること、

パンツでガードしてるけれど、パンツをはいてる時は

排泄しちゃダメですよ!という意識付けじゃないかなぁと思いました。

 

オムツも同じとすれば、オムツをすることは

排泄を抑制することだと思ったんです。

 

ここで赤ちゃんのオムツと高齢者のオムツの意味の違いを感じました。

赤ちゃんは未熟な消化・排泄能力のために、

排泄行為は、制御できないからオムツをする。

もしも野生の状態なら、人の赤ちゃんのように排泄物を制御できなければ、

補食動物に補食の合図を送るようなことになる。

人の赤ちゃんは他の動物種に比較して未成熟で産まれると生物学で学んだので、

人の赤ちゃんのオムツは成熟=排泄行為の意識化するまでの

野性的には生存のための処置・工夫だと思います。

そして、排泄を意識化できると同時に、

排泄を抑制する装置としてパンツをはくのです。

オムツをしなくても排泄を制御できるようになったら、

オムツの機能=消化排泄の未熟を補完するが不要になったら、

実はパンツをはかなくても暮らせるのです。(たぶん)

 

人類史的にパンツに相当するものを人間がはくようになったのが何時からなのかはわかりませんが、

大正時代にデパートの火災で、当時着物の下に下着としてのパンツをはいていないことで、

避難時に陰部がみられることを恥じて避難できずに亡くなった方がいて、

パンツが普及したという話を聞いたことがあります。

着物の場合、パンツのように陰部だけを被うものがなくても隠せたということでしょう。

言いたいことは、パンツをはくことは生物として必然ではない、

排泄を制御できればよいのだから。

そして、パンツをはくのは、社会的意味だということです。

パンツは、排泄行為をしてはならないことを感知するための装置でもあると思います。

(他の意味もあるかも性の所有という観点で)

 

排泄を抑制する装置、排泄するな=排泄できないを

感知させる仕掛けだとすると、

高齢者のオムツは排泄の介助・補助ではなく、

排泄の否定・抑制になるのではないか?という考えが浮かびました。

 

高齢者が排泄に失敗する理由のなかに、

尿意や便意がわからなくなり、

トイレに行くことができなくなり、

排泄場所でないところで排泄するということがあります。

でも、

動物としての生存本能(捕食者に見つからない)

人間として意識(排泄は排泄場所で)

があれば、もらすほうが難しいことのはずだと思いました。

 

きれいに排泄できないから汚す、

汚された側の労苦をわかっていない!

という非難はあるだろうと思います。

なので、戯言って逃げをうっています。

 

でも、高齢者の排泄を考えるとき、

オムツもあてない、パンツもはかない、ということが、

もらすことを抑制するという発想も

おもしろいと思って書いてみました。

パンツをはかないことは、

排泄感覚の鈍感化を遅らせるかもしれない。

パンツをはかないことは、

排泄の要求に速やかに応えられる環境をつくることかもしれない。

パンツをはかない?

パンツをはかなくても過ごせることは、楽だよ~

ストレスフリーの方法のひとつ、

自宅でしかできないけれどね。(^^)

 

着物のざっくり感と洋服のざっくり感を

合わせたような介護服があれば良いですよね。

とりあえず、僕が着てるロングTシャツや

スカート(陰部が見えない長さで歩行の邪魔にならないような丈の)で試す人いないかなぁ。

 

戯言です。m(_ _)m

 

排泄介護の基本は、

排泄サイクルの困難箇所を見いだして、

サイクルがスムーズに流れるように介助することです。

 

排泄のサイン(尿意や便意)を見つけること。

サインから排泄動作をスムーズに介助すること。

 トイレへの移動、着衣を脱ぐ、

 安定した姿勢でいられること

排泄後の介助をスムーズにすること。

 おしりをふく、着衣

トイレをでて、手洗いする

 

サイクルの流れが滞るところで必要になるのが、

介護用品です。

 

移動に問題があれば、車イス(移乗の技術)

姿勢の安定に問題があれば、手すり等

衣服の脱着に問題があれば、衣服の工夫

おしりをうまくふけないなら、ウォシュレット?

 

オムツもパットも手がまわらないから、

介助者の利便と要介護者の不快解消のために、

補助的に使うのがベターなはずで、

排泄介護のスタンダードではないはずなのです。

 

追加の戯言です。

 

じゃぁ、おまえやってみろよ! っていう人がいるだろう。

ひとりでは支えきれないです。

おまえ!じゃなく、

助け合わないとできないから、介護って大変なんです。

 

 

 

 

 

極めれない人

中心と周辺、円の中心点と円周みたいなこと

僕は周辺の人って思っている。

ティーンエイジャーの時に極める人をやめたというか、

自分は極める=プロではなく、

極めないけどおもしろい=アマチュアの変わり者に

なりたいと思っていた。

それでどうなったかというと、

予感通りに中心にはいない人になった。

マチュアって言ってもその分野ではそれなり、

そうだオタクってことか、

僕はオタクにもならなかった。

ちょっと変わった人=世間的にはずれた人になったと思う。

 

僕の世代にはメジャーよりマイナーが格好良いという風潮があった。

メジャーは体制側で、マイナーはサブカルチャー

メジャーは軍隊で、マイナーはヒッピー、

みたいな感覚があって、僕はヒッピー派だった。

 

いつのまにかサブカルチャーだったものが、

メジャーになっていくことで、

ドロップアウト(落ちこぼれ)や

スライドアウト・スライドダウン(滑り外れ)

が体制からというだけでなく、

世の中から遠くなる端っこの人になった気がする。

 

生まれた時からテレビ(白黒、ダイヤル式チャンネル)

はあったことと、

今思えば、世の中の端っこでも属していたい心理があったのか、

テレビの無い暮らしは考えられなかった。

家に帰れば、まずテレビをつけて、寝るまでつけていた。

寝ててもザァ~~って砂嵐画面ってことも日常だった。

 

約1年前から、家では、ほぼテレビを見なくなった。

職場や出先でテレビを見ることがあることで、

何となく世の中の様子がわかるようなわからないような。

 

スマホタブレットが情報の入り口だ。

不便は感じないし、世の中に属さなくてもいいかぁって

危ない心理に至っているかも知れない。

 

でも、テレビを通して、ずっと枠付けされてた価値観から

他人の目の価値観から、自己中心的な価値観になってきたようでもある。

 

自己中心的な価値観というと勝手気ままと思うかも知れないが、

自分を中心にすることで、むしろ相手を人として見る、

いわゆる、自分がされたく無いことは他人にもしない、

自分がされたくなくても世の中はこうだからでなく、

の価値観になってきた気がする。

 

次のステップは、

自分を中心にして感じる相手への思いの集合として社会を見る価値観、

みんな違ってそれで良いの価値観になると思う。

その次のステップは、

みんな違ってそれで良いを社会の価値観へ昇華させる段階へ

進むと思う。

 

ベーシックインカムは、みんな違って良いのベースをみんなで支える仕組みだろうか?と思っている。

条件付き給付の生活保護ではなく、ベースを保障することで、

ベース以上の部分へ労力を向けられる、

孔子の衣食足りて礼節を知るを実現する仕組みかなぁと思っている。

それには、従来の働かざる者・生産されざる者を排除

(支給条件という仕組みの)することを常識とする価値観から、

 生きていることが支給の対象として平等であるという価値観に変わると思う。

働くことは、生活費を得るためでなく、

それぞれが思う生きる価値の実現となる世界が、

新しい世代(レインボーチルドレン)の世界だといいなぁと思う。

 

 

 

 

 

 

本当~はね (¬_¬)

他者から自分がどうみられるのか気になりますか?

僕は気になります。

 

何々に見えますよねが、ポジティブな時

いえいえ、本当はね、と謙遜(否定はしきらない否定)します。

 

何々に見えますよねが、ネガティブな時、

どうせ自分は、と受け入れます。

 

私、何々だと思っていたんですよ、と聞いたとき、

あっ、僕も何々でしたよ、と同じを唱えます。

 

ふっと思ったんです。

 本当~はね、って言ってることは、

過去のことだなぁって。

 

ポジティブを否定するのは、

そうじゃない自分がいたからだけど、

今は?昔はこうでしたって言って

今の自分を受け入れていないのでは?

 

ネガティブを受け入れるのは、

そういう自分は変わりっこないと思うから?

今は?変わりたいって思ってるでしょ?

 

僕も同じっていうけれど、

今は?同じ言葉でも意味が変わっているかも?

 

今は?って問い直すことをサボって、

以前(過去)はで済ませてしまうと

 

せっかく変わろうとしている人生を

もとの枠にはめなおしてしまう。

 

せっかく自分の気づかなかった自分を教えてもらったのに、

もとのお馴染みの自分に戻してしまう。

 

せっかく変わったと気づいてきたのに、

やっぱり同じにしておこうと自分をだます。

 

本当はね って思わせて自分がわからなくなる。

 

どうして自分は自分のことを知りつくしていると思い込ませるのか?

どうして他者の言葉を受けとめようとしないのか?

 

確かなことは不変だと信じていたら、

明日の私は間違いになる、ダメになる。

といいながら、不変な自分を作らなきゃと思う。

だって日々揺らぐ自分が不変ではないから、

正さなくてならないものだから。

 

変わらない自分を築くために、

変わる自分を否定する。

 

本当はね(¬_¬)

本当は、自分は常に変わる・人生は常に変わる

変わる=動くってこと。

 

何をしてきたか?

なんて気にしないで、

どんな人かって?

説明しなくて良い、見たままだから。

何になりたいか?

知らない。何になるかより、どういたいかだから。

 

本当は?

本当はねって(固定化できる私)はない、

本当はね (¬_¬)

 

私という湖に、本当はねって石を投げ入れた。

水面を波紋が広がる、私ってこんな模様って。

それを見て他者が湖に石を投げ入れる、

新しい波紋が広がり、波紋が干渉して波が立つ。

いろんな人が湖に石を投げ入れると、

湖の波は複雑な波模様になる。

湖は私、水面の波は私の模様、

どんな模様も私だって知りたくて、

静まりかえった湖面に、また、

石を投げ入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵に描いても餅

何になりたいか?を考えることは、好きじゃないけれど

停滞している現状に「絵に描いても餅」の餅が要ると思う。

つきたての白い餅で充分だろうに、

絵に描くとなると、あれこれ大きなことを描きたくなる。

 

ここに1億円というか、お金の制限がなければ、

何に使う?と聞かれた時に答えたのが、

誰でも集える癒しの施設をつくるだ。

 

誰でもとは、

リハビリをしたい高齢者や障害者、

その家族や介護者、

家族の子ども…って誰でもぉ~。

 

例えばこんなイメージ、

リハビリに来た高齢者がリハビリルームで運動をする

調理室で作業療法兼食事会に参加する。

高齢者を送って来た家族(嫁さんなど)は、

マッサージやヨガ、ダンスや占いなど、を楽しみながら

リハビリの連れと同じ施設で過ごせる。

大人だけじゃなく、子どものプレールームや遊具場もあれば良い。

屋台村スペースも楽しいなぁ、

リハビリとヒーリングと遊びの複合施設だ。

 

リハビリスペースは、運動スペースにもなるだろうから

リハビリの傍らでボディービルダーがいても良い。

 

ヒーリングスペースの店舗は、

自宅サロンの人たちが曜日や時間を決めてシェアする。

そこに来た誰もがそれぞれ楽しく時間を過ごし、

一緒に来て、一緒に帰れる場所をつくる。

 

絵に描いた餅です。

 

リハビリのできる施設は少ないし、

自宅でするには限界があるし、

専用の器具や広いスペースも必要だろうけれど、

できそうもない。

 

仮にリハビリ施設をつくるとしても、

家族が送迎で利用者を置いて帰るような施設だと、

家族のリフレッシュにはならないから、

リハビリをする人と家族はバラバラになる。

 

そんな家族を癒してくれそうな個人事業主の自宅サロンを

している人は結構いるけど、

イベントやクチコミでの集客では大変だ。

主婦も多いから店舗を構えたり、借りたりでは、

続けるのが大変だから、スペースを使いたい時に使えれば良い。

個人で構えれば、休めば利用できないが、

マッサージのできる人が何人か集まれば、

同業者がサポートになるし、

お客はA店が休みでも、B店でサービスが受けられると

集まる利点は多いと思う。

 

カルチャー教室もいいぞ、

喫茶店や食堂を障害者雇用の場にできるかも、

妄想は広がる。

 

新しい企業誘致は要らない、今ある資源としての

個人事業主さんである主婦たちの開業の場を提供するだけだ。

 

ここで主婦たちが収益を得れば、消費につながる。

小さくても地域でお金が回ることが大事だ。

大きな企業誘致はまとまった税金を得られるかも知れないが、

企業が得る利益は地方より企業内に、つまり本社に行くと思う。

流れては来ても、回りはしないだろう。

  

そうだ、ディズニーランドみたいに、

誰もがその人なりに楽しめる、朝から晩まで

いられる場所があればいいよね。

ひとつの建物でなく、街としてつくる、

アミューズメントエリアをつくったらおもしろいぞ。

 

なんて話を、おおぼらふきなことを考えたりした。

おおぼらなので書きっぱなし推敲無しです。

 

話すということ

前回のブログで一行の一言にこんなに解説がいるのか?

いるんです。それは TEDトークを見たからと、

次のふたつのTEDトークをあげました。

1) セレステ・ヘッドリー:上手に会話する10の方法

2) ミーガン・フェルブス=ローバー:

 ウエストボロー・パブティスト教会から去った理由

 

ふたつに共通しているのは、聴くこと(リッスン)です。

お互いが相手に興味をもって聴いて、

お互いの思いを伝えることでした。

 

そして、セレステさんが項目2であげたのが、

会話では『一方的に話さないこと』

この時に「一方的に言いたいのならブログに書けばいいでしょ。」

と言ってました。

次のふたつ、

項目5:もし知らなければ知らないといいましょう

項目6:相手の体験を自分のものと同一視してはいけません

も加えて、僕が思ったことは、次のふたつです。

 

a) ブログは一方的に話している(話していい)

b) ブログを読む人が、自分と同じ思い(言葉)とは限らない

 

どうせ一方的に話すのだから、わかろうがわかるまいが

知ったことじゃないと書きつづればいいと考えるより、

同じ言葉でも違う受けとめかたがあるとすれば、

僕はこの言葉をこういう意図で使いました、

と言うことが、

一方的に話す・書く時にも想っていたほうが良いと思いました。

 

いちいちこの言葉は、こういう意図ですと書くことは

実際にはないとしても、

”ようだ“から”ヨーダ“への書き換えが、

そこにスターウォーズのジュダイマスターが見える

なんて発想についてきてくれる人はいないと思いました。

 

会話のシーンなら自分の発言で大笑いしてる変な人です。

ブログだから自分で笑ってるだけでも構わないけれど、

それでは本当に読む人を想定しない一人語りになります。

なんか虚しくないですか?

 

一方的に話すならブログで、

セレステさんは言ってましたけど、

誰とは特定できない誰かに話している感覚はあります。

あるいは、友だちや知り合いに話しているつもりってあるように思います。

わかってほしいんじゃなくても、

そういう想いもあるよね、と受けとめてもらいたいなら、

無駄な解説をするのも、ありだって思います。